| ■ 今月のちょっといい本 |
キャッチャー・イン・ザ・ライ著者:J.D.サリンジャー 翻訳:村上春樹
野崎孝氏の翻訳での『ライ麦畑でつかまえて』を読まれた方は多いことと思います。アメリカ現代文学の記念碑的作品であり、わが国の現代文学にも大きな影響を与えました。この度村上春樹氏翻訳版が出たわけですが、氏のサリンジャーへのこだわりにはさもありなんといった感じがあります。1917年に生まれたサリンジャーはもう84歳になっている筈ですが、公式的には1953年にニューハンプシャー州コーニッシュの山の上へ引きこもって以来、高い塀を廻らした邸宅の中で世間に背を向けて、頑なな隠遁生活を送っていることになっています。いまだに出版するつもりのない小説を書き続けているという説や、20年以上前にすでに死亡していて、嘗てサリンジャーが使っていた書斎には彼のひからびた剥製が古いタイプライターに指をかけた状態で座っているというジョークや、いや世界のあちこちをお忍びで放浪し、フィービーに似た女の子たちがどこかから落ちるのを助けているという噂などがあり、作者自身が現代アメリカ文学の伝説になっています。 ホールデン・コールフィールドを単なる甘ったれた子供だと嫌悪する向きもありますが、衣食住の心配のない中産階級で育つ多感で繊細な少年が大人への階段を登るにあたって、汚辱とスノビズムに満ちた周囲の世界を受け入れることができずに困惑し、出口の見えない閉塞感に絶望する姿は、ひ弱な現代の日本人の姿に重なります。もしこれがアフガンやイラクや北朝鮮のその日の安全と食を保証されていない子供たちなら、まず生き残ることにすべての関心は集中し、夢や希望を育む余裕もないことでしょう。成績不良で退学になるホールデンの自暴自棄に見える行動は、第三世界から見れば贅沢な余裕ですが、本人にとっては逃げ場のない袋小路でもがく姿であり葛藤です。どんな恵まれた状況下にあっても人はそれぞれの理由で苦しむものであり、固有の大いなる悲劇を抱えています。そして他人には同じ靴を履いてみないかぎりその精神の極めて個人的な原風景は見えてきません。俗物のストラドレイターや不潔で厚顔なアックリーを嫌悪するとともに、ある時は彼らの姿を追い求めるホールデンには、捨てられた犬のような孤独感があります。悲劇の原因は彼が自分の価値が何かを知らないことと、処世を受け入れることを前提に構築されている硬直的な教育機構や社会に内在しています。読者がまず感じるのはこれが現代アメリカ文学の伝説、D.H.サリンジャーその人の物語ではないかということです。ホールデンは幸い、公園の回転木馬に乗るフィービーを眺めているうちに一種の救済を受けます。ブルーのコートを着てぐるぐる回り続けるフィービーの姿を見るうちにカタルシスとともに圧倒的な幸福感が彼を満たし、ホールデンがこの世と折り合いをつけることに成功することを暗示して小説は終わります。しかし現実のD.H.サリンジャーはホールデンのようにはいかず、世間に背を向けた隠者としての一生を選びました。『ヒッチハイクで西部に向かうんだ‥‥聾唖者のふりをし‥‥森のすぐわきに小屋を建て、そこで一生を終えるんだ。』ニューヨークを放浪するホールデンの妄想そのままの隠遁生活を送ったD.H.サリンジャーが現したいくつかの作品の中で、『フラニーとゾーイ』や『バナナ・フィッシュ日和』『エズメのために』などとともに一度は読んでおきたいのが本書です。人はその情動や思考を言葉により客観化し、誰かに伝えるために生きています。誰かは必ずしも人間である必要はなくあるときは神であり、彼自身であってもかまわず、宇宙のどこかにいるはずの可能性の存在かもしれません。 大切なことは言葉によって初めて人は人でありえることです。ストーリーテリングの才能の価値は人である以上、根源的なものであり、人は「彼自身の物語」を紡ぐために生きているといってもいいでしょう。ホールデンやサリンジャーの価値が文明にとっていかに意味があることかは、バッハやモーツアルトが人類にとって意味がある以上に明白なことと言えます。 |